インタビュー 愛善みずほ会 (農業)

  • インタビュー

一般社団法人 愛善みずほ会
出口 瑞さん・
矢野 健さん
亀岡市北古世町

Interview

亀岡市を拠点とし、農作物の生産と技術指導などを行う団体。戦後間もない昭和23(1948)年、宗教法人「愛善苑」(のちの「大本」)によって創設された。
現在亀岡市内に、1ヘクタールの畑と3ヘクタールの水田を持ち、独自の農法「愛善酵素農法」によって作物を育て、その技術を普及すべく、全国各地に農業指導などにも赴く。戦後から70年の歩みを振り返りつつ、今現在の取り組みについて、お話を伺った。

左から矢野健さん、出口瑞さん

元あった状態に「農」を戻したい

矢野:設立は昭和23(1948)年です。太平洋戦争の後で、食べるものが非常になかった時代で、とにかく食料をできるだけ多く提供できるように、ということでたくさんの作物を効率良く作るっていうことが一番の目的でした。化学肥料を導入したり、勧めていたりしていた時代もありました。ただ、みんなが食べられるようになると、化学肥料の害もいわれるようになりましたので、(独自の)酵素農法が取り入れられるようになったんです。
お米作りにも熱心で、お米の品評会を開いたり、いろんなお米を作る方々のところに行って勉強会をしたりしてきたんです。昭和30年代後半から昭和40(1965)年くらいには「みづほメロン」という愛善みずほ会(以下、みずほ会)の名前のついたマクワウリが一世を風靡したんですよ。東京の電車の吊り広告になるくらい人気を博しました。その後も、(亀岡の)旭町では、まちを活性化させるために「旭メロン」という名前で作って出荷していました。
また、椎茸菌を作って、椎茸栽培にすごく力を入れてた時期もあります。みずほ会の指導のもとに、大阪の開発前の千里ニュータウンなど各地で作られ、非常に売れたんですね。

出口:みずほ会には発足当初、現場に行って指導する指導者がけっこういたんですね。ところが、時の流れとともにお米を作る名人がだんだんいなくなってしまってね。

矢野:東京の明治学院大学の神門善久先生が、日本の農業について書かれた本(『日本農業への正しい絶望法』新潮社)の冒頭に「“東の三浦、西の川上”という二大巨頭が亡くなった、2人はお米作りの名人だった。」とあるんです。その川上先生が愛善みずほ会の指導者だった。広島の方で、すごくいいお米を作っておられて、残っている写真を見てもたいへん勢いがあるんです。すごいエネルギーを感じる。で、東の三浦先生はずっと、当時(愛善みずほ会が発行していた)『みづほ日本』という冊子に毎回、天気予報を書いておられた。そうした立派な方々の後継者がなかなかいなかったこともあり、長い歴史の中で、先ほど食べていただいたミニトマトなど、今育てている力ある野菜を手がけるようになったのは、ここ10年くらいなんです。

矢野:発足した当時、みずほ会の会員は4万人くらいいたんですよ。ところが昭和27(1952)年の段階では、1万人くらいまで減るんです。なぜかというと、先程言った化学肥料や農薬がアメリカから入ってきて、みんなそれを使うわけです。そうすると綺麗なものができるし草は生えへんし、こんな楽なものはない。若者が集団就職で都会へ行ったりで、3万人くらいの会員が減ってしまったわけですよ。
70年という月日を重ねる中でだんだん土が駄目になってしまったり、化学肥料や農薬の影響で自分たちの代ではどうもなかったけど、次の子供の世代でアトピーとか、いろんな食べ物に対するアレルギーなどが出てきて、今またこれはちょっとあかんなというとこでね、見直す時期に来ているんですね。戦前は有機農法が当たり前やったんで、やっぱり元の状態に戻すことが非常に大切と感じて、取り組んでいるところですね。

自分の手で、できる範囲で

 

出口:愛善酵素農法に関しては、戦前、亀岡に「酵素研究所」というのがあって、そこで最初研究していたそうなんです。酵素の研究をしていて、我々と深い関係のある島本微生物工業の先代の方が、いろんな基礎知識を持って滋賀の方で研究されたと聞いています。
皆さんこの農法が良いっていうのはわかってはるんです。ただ、やっぱり手間がかかるので、やりたいけど難しいという現実がどうしてもあると思うんですね。今我々の会員さんで農業をしている方もいらっしゃいますけども、農業の世界は高齢化しているし、それが上手く次の世代に引き継がれていることは残念ながら少ない、というのが現状かと思いますね。

矢野:(それを打開するために、)みずほ会では新規就農研修事業に取り組みました。最初は京都大学の大学院を出た方や社会人で農業をやりたい方、学生さんとか、さまざまな方が10名ほど来られたんです。で、2年間の研修で、まず3アールくらいの農地を確保してスタートするんですけど、やっぱり現場の大変さがあって、途中でリタイアした方もいらっしゃいますが、今は6名が亀岡に残って、頑張っておられます。
受け入れる方もなかなか上手くいかないところもあって、今はそれに変わる「農業体験プログラム」を組んで、農事スタッフとともに現場の行動を学ぶということをしています。そういった形で受け入れはしているので、少しでも農業に思い入れがある人が来てくれて、将来を見据えてやっていく形になればいいですね。
インターンシップでは毎年夏に地元の大学生がここに来て仕事を一緒にやってもらって、ということもしています。

出口:若い人たちが集まって農法を学んで、野菜を作って自分で食べる。この体験を通じてこの農法の優れたところを学んで、いずれは家庭菜園で安全なものを作るようになって、健康な生活をしていただくのも1つの方法じゃないかな、と思います。だから “業”というか“経営”としてするのは非常に難しい面がありますけれど、自分の健康は自分で守る生き方を望んでる人たちがいらっしゃると思うんで、その中で様々な人たちに普及していくことも非常に大事かなと思っています。

出会いの場、逆らいつつ従いつつ

出口:KIRI CAFEがオープンする時に松井先生の文章を目にする機会がありました。今流行りのキラキラしたキーワードがいっぱい入ってるんです。こんな良いこと、かっこいいことばかり書いてるけど、実際何をするんだろうと。ちょっとかっこよすぎる、と(笑)。
それを知りたくてKIRI CAFEに行ったら、そこに集まってくる人たちに関心を抱きました。松井先生は、出会いを通じて何が生まれてくるのか、そういう出会いの場なんだとおっしゃって。そこからちょっと面白くなったんです。KIRIマルシェで知り合った地元の若手の農家さんたちを中心にして、マルシェ的なことを企画したりとか、人間関係ができましたね。
私も元々美術系で、古い人間なんで個人の自己研鑽の結果が芸術だと思ってるんですけど、今はアートとか芸術が氾濫しすぎてるな、と。そういうことも含めて、何か関わりつつ、アンチなこともしたいなと思ってます。逆らいつつも従いつつ、魅力的な人たちとの出会いもあるなかで、これからいろんなことを一緒にできたら、と。
ただ霧の芸術祭が終わったらどうなのかな、とは思うんです。関わってる人たちもどうなるのか、ということは気になりますね。

土作りについてお話しくださる澤田さん

色鮮やかで味も濃い野菜たち

インタビュー・文 / 永尾祐人(京都造形芸術大学文芸表現学科2年)

公開日:2019年11月27日